アール“バド” パウエルは、1924年9月27日ニョーヨークに生まれ、1966年8月1日 に亡くなっている。幼少の頃からのクラシックのピアノ・レッスンをへて、 1940年頃にはニューヨークのコニー・アイランド辺りで女性バンドにおける草分け的存在の ヴァレイダ・スノウのバンドでプレイしていた。その後、「ビバップが生まれた店」 として名高い“ミントンズ・プレイハウス”で、一番大きな影響を受けたセロニアス ・モンクやその他の多くの先輩たちに混じって演奏していた。その後、トランペットの クーティ・ウイリアムスに雇われ彼のバンドで働くことになった。1944年の貴重なバドの 演奏を記録したアルバムが『クーティ・ウイリアムス&ヒズ・オーケストラ』である。  この頃、後年に至るまでパウエルを悩ませることになる人種差別的な暴行を頭部に負っている。 しかし、バドはすでに輝かしい彼の個性を確立し、パーカーやガレスピーが推進していた 「バップ・イディオム」のピアノにおける実践という、ジャズ史上忘れることのできない実績を着々と残しつつあった。  40年代半ばの録音として『デクスター・ゴードン/デクスター・ライズ・アゲイン』が挙げられる。 そして、1947年モダン・ジャズ史上最高のアルバムの一枚と考えられる、ルースト・レーベルに録音された 『バド・パウエルの芸術』が発表された。続けて『ジャズ・ジャイアンツ』『アメイジングVol.1』 『ザ・ジニアス・オブ・バド・パウエル』と、40年代から50年代初頭に掛けてのセッションを収録 した作品はいづれもバドの“天才“が光輝く演奏だ。彼は多くのパウエル派を生んだが、 ビル・エヴァンスがそうであったようにパウエルとパウエル派との間には大きな谷間が存在した。 太陽の秘宝 パウエルはジャズの歴史においてビバップ・イディオムの実践とインプロヴィゼイションにおける オリジナリティとモダニティを一度に成し遂げた数少ない巨人の一人である。  50年代も半ばを過ぎるとパウエルのプレイにはかつての神懸り的な閃きは消え失せたが それでも人生の時間を経て彼のプレイは多くを語るようになっていた。 その時代の最も素晴らしいプレイを記録したのが『ストリクトー・パウエル』、 『ロンリー・ワン』であった。その後、パウエルは再び輝きを取り戻し、永遠の大ヒット曲 「クレオパトラの夢」を含む『シーン・チェンジ』を1958年に吹きこむ。そして、翌1959年 バドはパリに赴き、暫くの間ここに滞在することになる。パリでの生活がバドに新しい生気を吹きこみ、 前以上にパウエルは音楽の探求を続ける。ドビッシーに傾倒したのもこのころである。 未発表ながらドビッシーを弾き続けるバドのテープが存在するといわれ、愛好家たちにはいつの日にか 発表の時が来ることを心から望んでいる。
  オスカー・ペティフォード〜ケニー・クラークとのトリオで出演した 「エッセン・ジャズ・フェスティヴァル」の演奏やColumbiaに吹きこまれた 『キャノンボールに捧げる』、モンクに捧げた『ポートレイト・オブ・モンク』などはこの 当時のパウエルを伝えるものだ。また、スウェーデン、ストックホルムの名門ジャズ・クラブ 「ゴールデン・サークル」におけるライブを記録した『ゴールデン・サークルのバド・パウエル』 の5枚の作品は、揺れるパウエルの精神状態を記録した貴重な演奏だ。また、デューク・エリントン によって監修されパリで吹きこまれた『バド・イン・パリ』はアルバムとして見れば、晩年における最高作 『ブルース・フォー・ブッファマン』と共に格調を感じさせた最後のアルバムといえるだろう。
 1964年パウエルは死期を感じたようにアメリカに戻る。帰国したパウエルはニューヨークの名門クラブ 「バードランド」に出演、ニューヨークッ子の歓迎を受けた。J.C.モーゼス、ジョン・オーとのトリオに よるその演奏は不安定さを残しつつもまずまずだった。そして、最後の録音 『ザ・リターン・オブ・バド・パウエル』を1964年10月22日に吹きこんだ後、 翌1965年「カーネギー・ホール」における悲惨なコンサートを最後に演奏生活に別れを告げ、 1966年8月1日静かにこの世を去った。  精神的な不安定さによって演奏は時代時代においても大きく変わり、 典型的な「天才型」のミュージシャンであったパウエルだが、 その存在は今もジャズ史上に燦然と輝き続けている。
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